昭和47年12月17日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此の方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 御理解を頂くと、御教えを拝聴するという心は、いつも心が白紙でなからなければいけない。心が囚われておってはならない、こうだ、ああだと、いうならその自分の思いとか、信心、信心はもうこれだっという風にすぐ断案を下してはならないと言われる、ね。いつも本当のことへ、本当のことへと進む心の状態を頂くためにはね、いつも心が白紙でなからなければ、
 昨日は親先生あげなこつ言いよんなさったばってん今日はこうと、又そんな矛盾した様な事がある訳です。ね、ですからいつも白紙でおらなければいけない。いやしくも神様の御教えを頂くのでありいやしくも、私がここで説かせて頂く限り、私の知恵でお話しとっとじゃない、と言う事を皆さんが信じて下さって、例え昨日赤と言われても、今日はそれが赤と言われても、ね、白と言われても、ね、赤の時には赤を押し頂いて行ったらよし、白の時には白の事をああそうですかと、それを言うたら良いのである。
 昨日高橋さんがその御祈念の後にお届けをされました。先日お鮨屋の職人さんが夫婦連れで、まあよっぽどひどい着の身着のままのような状態の人が、組合の方から推薦されて、紹介状を持って、雇うてくれというてみえた。勿論その組合の方からの福寿会という会がありますその福寿会を通してきとるであるからというあれもあるし、勿論もうちくいちお届けをなさいますから、お取次を頂いてお願いをしたら、それを入れてもよかろうということであった。
 ところが、お金を少し貸してくれと言うからお金を少し貸された。そして散髪に行くというて夫婦で出かけた。それっきり帰ってこない。いうなら篭脱けです。ね、親先生にお取次を頂いてお願いをして、そしてこげなこつになったけんもう明日お願いせんといったような、そして昨日また、ある職人さん、やっぱり同じ職人さんのことでこういうのがきとりますがいかがでしょうかというお伺いがある。
 私はねもう本当にあの、昨日のことは水に流すとそういう意味でなくてですね、いつも白紙の状態でなからなければ、それからお取次を頂いての絶対性というか、ね、又はこりゃ高橋一郎先生のお言葉であります様に、お取次を頂かずして起きて来る事は、ね、良い事も悪い事もみな悪いと仰っておられます。又お取次を頂いて起きて来事は、良い事悪い事みな良いとこう仰っておられる。私はもうここん所だと思うですね。
 金光様のご信心のこの信念の確立と言った様なものは。一昨日お伺いしたのが篭脱けのその職人でおうたと。あくる日もまたんならそのことがね、自分の都合の良いとか悪いとかという事じゃない。ほんとその時に私頂きましたのはね、あの私の大坪総一郎っていうんですけども、『総一』という事を頂いた。総てを一つにすると言う事なんです。ね、もう今のことでいったらいい、いいです金光様のご信心は。
 ここへ参って尋ねる所がなかったとおっしゃる、ならここへ参ってくる訪ねるとこがあるわけです。なら今のね、尋ねる所があるけれども、昨日と今日とは、昨日は赤といいあくる日は白と例えば言われてもです、それは所謂おかげとして頂けれるような信心こそです、最後に言われます、徳を受けて身しのぎをするようになれとはそう言う事なんです。そう言う事からしか徳は受けられないです。
 昨日私はある書物を読ませて頂きよったら、こう言う事ここに書いてある。それを抜粋して書いてみた。「マルキシズムもまた、それに対する所の資本主義でも、尤物論でも有心論でも、いやしくもそれが人間の思想である以上は、人間を損なおうとする事をもって、そこなおうとする事をもって、考えだされたものではない。はずであると。その結果どうあれ人間と幸福、人間を幸福にするという願いがあるはずである。そこで思想するものの態度である。
 第一にどこまでも真実に対して謙虚でなければならない。第二は真理はつくるものでなく、発見せられれるべきものであるという態度が必要と思う」と言う様な事が、マルキシズムと、所謂なら共産主義であっても資本主義であってもです、なら尤物論であっても、有心論であっても、いや人間の幸せというのはもう有心論でいかなければ、いや尤物論で行かなければ、いや共産主義がほんと人間の幸せになるんだ。
 いや資本主義が本当だと、それそういう思想というものを考え出したと言う事は、どうでも人間の世界を乱してやろうというて起こったものではないと言う事。みんな人間が幸福になる事の為に、そういういうならば思想も学問も、いうならあるのだと言う事です、ね。私は是を読ませて頂いておってから、こりゃ有心論と言う事は所謂心と、ね、心と言う事を言うけれども、このみんながね。
 本当の幸せになる事じゃないと私は思うたんです。金光様のご信心とはね、もうどこまでも人間が幸せになる事の為には、お徳を受けて頂かなければならないと言う事なんです。人間が幸せになる事の為にはです、どうでもお互いが只心だけではなくて和賀心でなくてはいけないと言う事なんです。ね、この事を世界中の人達に分からせる、いわば思想なんですよね、合楽で説いておるのは。ね。
 だから私はそれを書いておる人がです、そのどこまでも真実に対して謙虚でなからねばならない、だからなら今申しました様な、資本主義共産主義、有心論又は尤物論と言った様な人がですね、もし本気で謙虚に私の話を聞いて下さるなら、いやそれが本当だと飛びついてこなければ嘘ですね、謙虚でなからなければいけない。それを只自分が我をはっていんや有心論だ、いんや尤物論だというておる所にその謙虚になれない。
 私は今日みなさんに聞いて頂きたいのは、白紙でなからなければならない、御理解を拝聴する、御教えを頂くということは。ね、白紙で頂かなければならない、と言う事なんです。みなさんここまで聞いて下さってからね、成程と思うて頂かなければ是からのお話が身にならんですよ。はあ親先生が説かれる事は、そういう素晴らしい、大変事なのだと言う事。その和賀心を目指していくと言う事によって、人間の幸福はもうそれ以外に在り得ないのだと。
 と謙虚にそこの所をです頂かせて貰う、為にはそこの過程においてです、ね、一昨日お願いをしてから逃げた職人な篭脱けをした。もう明日からお伺いはせんと言った様なものではなくてです、お取次を頂いて起きる、起きてくる事は良い事悪い事みな良いである。お取次を頂かずして、起きて来る事はそれこそ良い事悪い事みな悪いです。結果はそういう、絶対それなんです。ね。如何に和賀心を目指させて貰う。和賀心を頂かして頂く事の為にお互いが、日々精進しなければならないかと言う事が分かりますね。
 昨日私ははあ成程だと思うたお届けが、お取次をさせて貰ったんですけれど、最近合楽で五つの願い、ああそれに取り組んでおる人は、本当に素晴らしい事を、体験しておりますですね。昨日ある夫婦仲の悪い方なんです、最近時々参ってみえるんです。ね、家庭に不和のなきが元、どうぞ家庭が円満にいきますように、円満にいきますようにと、そのいうてお願いをする。
 そこでそれに引当にもう決して人を責めません、どうぞ家庭円満になります様にというお願いを立てさせて頂くからには人を責めない。所が先生人を責めないだけじゃ足りませんちいうんですよ。どう言う事ですかと言うたらですね、もう私はもう素晴らしい体験を致しましたと。大体その人はまあどっちかっちいうと大変浮気な人なんです。私がねもう是は夫婦仲要するためには、私の浮気心を取る以外にはないと思うたちいうた。
 そしたらね、もう初めて家内からああいうことを言われました、その有り難いこと。この調子でいくなら夫婦なか睦まじゅういけますと言うんです。例えばその方の場合は、場合には責めてもいいわけです。もう私が浮気心を取りさえすればです、私と家内の仲は絶対円満にいくんだというんだ。いやあそれはあんた素晴らしい事を体験したねて言うた事です。取り組まなければですそれそれのですね、その新たないわば道というものは開けてこないと思うですね。
 どこまでも、例えば家庭円満になる事の為にはね、それは人を責めると言う様な事は致しませんと言う是は、又色んな意味におかげを広く、それこそお徳を受けて行く道ですよね、これは。ね、けれども私が浮気を致しませんという、その事を心の中に誓わせて頂いたら、家内と円満にいくというのは、しかしお徳を受けて行く道じゃないです、かたい家内と夫婦が仲ようして行く事によって徳を受けるという道じゃないですね。
 ですからやっぱりその方は、人を責めると言う事は、よりかもっとよいとこう言ってますけれども、実はやはりそれもあわせてです、頂いていくといういろいろ工夫がいるんじゃないでしょうかね。「遠路のところを氏子はおかげを受けて、遠路のところを参ってくるが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」ね、身しのぎをするようになると言う事が、人間の幸福です。ね。人間、私幸福というのは身しのぎが出来る様になると言う事だと思う。
 体も健康でなからなければ身しのぎもできません。ちょいとお便所に行こうと思うたっちゃ足がたたんなら抱えち貰わなんならん。ね、それが身しのぎです。自分で行きたい所に行けれる。立とうと思うたら立てる、座ろうと思うたら座れれ、ね、はぁあれが今ここに必要だなと、思うてもお金がなかったら買えません。ね、身しのぎと言う事は、だから貯えもやはりなからなければならん事が分かります。ね、第一自分自身の心がですもう自由自在に有り難い方に操っていけれる心。
 身しのぎとはそう言う事だと思う、成程お徳を受けると言う事だと思う。徳を受けて身しのぎが出来る様に、人にあれ是と迷惑をかけんですむ、ね、人に頼まんでもええ神様のおかげで立ち行く所のおかげを受けると言う事が、身凌ぎをする様になる事だと思います。そのためには氏子がおかげを受けて、遠路の所を参ってくるがと、そういうおかげを目指して参ってくるのである。清濁併い呑むと言う事を申します。心の大きい人ですね、濁ったものでも清いものでも、もう自分のどん腹一つに治めていくとこういう。
 それがね言うなら信心でそれがなされて行かなければならん。それが信心でなされていく時に、愈々おかげが頂かれる。所謂身凌ぎの出来る様なおかげが受けられる。私は最近、皆さんが色々な事を体験していかれる私自身も色々体験させて頂く事なんですけれども、朝昼晩の御祈念が、段々新たな人達で増えて行く事です。私の考えとしては、金光様のご信心はどこまでも朝起きから。もう朝参りからだ、もうこれ一つにこう絞っていこうと言う様な心があったんです、ね。
 はあ朝参りも出来んでから金光様の信者といえん。言った様な事を私言ってたんですけれどね、その人の信心の程度、又は止むに止まれんじょ、家庭の状況どうでも夜でなからなければお参りができないという人、いや昼でなからなければお参りができない人。ね、それでよいのだ、と私の心が大きくなったんです。ね、皆さんでもそうです。自分の家庭なら家庭でです、自分の思うようになってくれればそれがよかろうごとあるですけれどもね、それはね身凌ぎの出来る様な信心にはならないです。
 片ちんばです。自分がそれがいくらよかってもそれは半分です。ね。ですから赤のものもおってよし、白のものもあってよし、朝参りしてくる人があってよし、夜参りしてくる人がある、いや昼参りをしてくる人があってよいのである。だから私はそういう昼参ってくる人でも夜参ってくる人でも、朝のお取次をさせて頂く様な思いで、なんとはなしに御理解を説かせて貰うでも、そんな気持ちで説かせて貰う様になった。頑張ってから朝参ってきなさい、という生き方からですそういう一つの包含する心です。
 身しのぎをする様な心を頂いて行く為には、そういう言うなら大きな心が必要です。また大きな心にならせて頂く事をです、ね、それは一般で言われる清濁併い呑むとは少し意味が違います。ね、信心によるものなのですから。こらえて辛抱しておるというのではないですから。ね、そこはそこで有り難い。ね、それが段々大きくなっていくと言う事が、信心が大きくなって行く事です。
 もう自分の小さい考え方。ね、いうならば自分のこれが本当だと思っておるささやかな知識というものがです、その知識の中に人を入れていこうとする、入れていかなかったら俺の言う事を聴かんのだという考え方、是では窮屈です。ね、それこそ全智識と言う様な人がおろうとは思われませんから、ね。私のいわば思うておる事が、ね、本当だと例えは思っておってもです、よりもっと本当の事があるのかも分かりません。ね。
 それをより本当な事を体験させて頂く為にはです、私がどうしても大きくならなければいけないのである、ね。朝参りだけに決まった事じゃない、夜しか参られん人ならです、(消えてる  )信心の工夫がなされていく時にです、でけんと言う事はない、矢張り朝参りでも出来る様になると言った様な、ケースは多いですよね。皆さんの中にもあります。ね、毎日お参りをとてもでけんと思うておったのが、もうどうして毎日お参りしなかったじゃろうかと、言うておる人もあります。
 ですからそれからはです、もうその神様のお育てを頂かせて貰わなければなりません。ためには私がどうしても、ね、こうと決めずに何時も白紙でおらなければならないと言う事です。ね、自分のどんなに是は間違いがないという生き方でありましてもです、その間違いのない生き方の上に、もう一つ本当なものを、それに添えていくという生き方、いやそれよりもより本当のものが、そこに発見でけたらです
 今までのものはさっとこう改めて、より本当な事へ入っていくという生き方にならなければ、私は身凌ぎをする様なおかげになってこない。成程人間の幸せ人間の幸福というものはです、こういう心の状態で真実から真実を求めていくという生き方。ね、だから今日の真実はもう明日の真実ではないと言う事も言えるのです。それをもう何年前の自分の思いを、に固守してしまって、ね、その殻の中に入ってしまっとったんでは、大変窮屈ですから身凌ぎがと言う事にはなりません。ね、どういう例えば思想でも、ね、
 人間が幸福になる事の為に考え出された思想である。と世界中の人達が例えばそれを思っておりましてもです、なら現在皆んながそれに色々な、自分の思想というか生き方のをなら確立していったからというてです、それでは結局は幸せにはなれない、ね。マルクスがもう5年生きておったら、ね、無神論から有神論になったであろうと言う事だそうですね。しかもその有神論というのもです、ね、所謂私が今言うのは神ですよね、無神、神は無いという生き方、いや神有るという生き方。
 先ほど申しましたのは心、有神論ちいうのは心と言う事です。ね、そういういずれでもなくてです、所謂神有ると信ずる信心生活。しかも只神有ると信ずる生活がです、ね、神の心に一番所謂機関に適う心。それは人間が和賀心を目指すと言う事だ。ね、その目指していくと言う事の一つの過程というかね、ね、一つの手段というか、それを最近ここでは五つの願いというのが打ち出されておる訳です。五つの願いその願いに徹底して行く所からです、もうその人独特の素晴らしいものが練り出されて来る訳です。ね。
 家庭円満のおかげを頂くためにです、ね、人を責めないその代わりに人を責める様な事は致しません、ね、是によっておかげを所謂お徳を受けていくならです、ならそれそれだけではけれども夫婦仲ようはなれなかったとこういう。家内を責めないというだけでは、ね。私が浮気はけしてもう致しませんという、浮気心を取らせて頂いたら、もうそれこそ手のひらを返すように、夫婦仲ようなってきたとこう言うのである。ね、ですから私はあの五つの願いというものを本気で願っていきよるうちに、皆さん一人一人のです、素晴らしい信心の確立があると思うんです、ね。
 おかげを受けて遠路の所を参って来るがと。昨日土曜で御座いますから、八女の石橋先生がお参りしてき、いつもこの頃はその四時の御祈念を覚えられて、四時の御祈念をあわ、頂きたいというのでしょう、必ず四時の御祈念前に参ってみえる。昨日は奥さんを連れて参ってみえられた。この前京都のなんとか、大学に受験した息子さんのお届けがしてあった。ね、本当にそれこそぬぐうたように、現代の医学ではどうにもできないという病気が全然その症状がなくなってしまうほどしのおかげを受けられた。
 しかもお願いをさせて頂いた。おかげで大学受験のが合格の通知を受けた、昨日一昨日十四日に受けた。だからこれはお前も、子供の事じゃから一緒にお礼参拝しなければいけんよと言うて、今日は家内同道でお参りをしてきたと。そして御理解を頂かれておる内にです、先生なら私もお願いをしてよかろうと言われる、奥さんが。私は時々ぼんやりとなって体がつめぇとなるという病気がありますと。
 だからもう本当に主人がこの頃その所謂症状を訴えないで楽に、それからもう一つ私がこの様な気持ちになって心が楽になって嬉しゅうなって、一生懸命仕事をさせて頂く様になったらもう最近は仕事が大変に多くなりましたと。すぐ近所にですねやっぱその方も金光様の信者さんだそうです、歯医者さんですその方。その方が非常に繁盛する。ね、所がねそこに負けん位にです、いうならあの記念祭を境ですからね。
 この方の信心は。境にですねもう本当に先生、おかげを頂いてもう仕事の方が大変売れてまいりましておかげで疲れもせずに、おかげを頂いておる。けん私申しました。体は楽になる、ね、商売は繁盛する、息子の試験は試験はでけた。そういう信心に家内も着いて来た、こりゃもう言う事ないじゃないですかというて、まあ四時の御祈念に入ったわけでしたけれどね、昨日。
 そういう例えばあの、純粋な気持ちでおかげを頂きながらです、ね、そして親先生のおっしゃる御事柄と言われる素晴らしいことをもう色々体験します。それを仏教の言葉ではこう言いますというて、お釈迦様の言葉を引用してから昨日話しておられました。はあそげなこっですか、ね、それを親先生は誰でもいうならば実行ができるように説いて下さることが素晴らしいと。ほうお釈迦様の仰った事はとても難しくて、普通の人間にはできんように思うておった。
 それを合楽では分かりやすく咬んで含めるように、誰でもその気になれば御事柄として受けていけれるように説いて下さる、そのことが有り難いと言う事も昨日言うておられました。ね、遠路の所を参ってくるが、そういうだからおかげを頂きながらです、ね、今日は高橋さんの例を取り上げましたような生き方。お取次を頂いて起きて来る事は良い事悪い事はみんな良いんだと確信をもってです、真の信心に進ませて貰う、所謂身凌ぎの出来る様な信心にならせてもらう。
 ためにどうでも本気で徹底して、家族が勢を揃えてどうでも、ね、もう御神前にぬかづくたびに、この五つの願いというものは本気でなされなければならない。子供に頼むがよい家内に頼むがよい、主人に頼むがよい。ね、責めるのではない頼むのだ。ね、そして子供にでもあの五つの願いだけはさっと、お唱えしたかと五つの願いをお願いしたかと、それをもう本当に、心の髄までね、それを染み込ませるほどしの私はおかげをね、合楽全体の方達が頂いてもらいたいと思うです、
   どうぞ。